子供の頃、外で遊んでいてゴミが目に入ると必ず母が舌で目を舐めてくれた。
おそらく昔はそうやって目のゴミを取っていたのだろう。
私も当時はそれが普通の事だったと思っていたが、大人になって人に話すと誰もが驚いた。
目を舐める!?
「ビフテキ」という単語を覚えた頃、母に「ビフテキ」が食べたいと言うと豚肉を塩胡椒で焼いてくれた。 それが我が家の「ビフテキ」だった。
「鰻の蒲焼」は「穴子」や「サンマ」だったし「ブリの照り焼き」は「銀鱈」だった。
「にぎり寿司」は食べた記憶がない。「お寿司」といえば巾着玉子焼きや人参などの野菜が入った「ちらし寿司」、もしくは手作りの「いなり寿司」だった。
それらの本物を食べたのは自分が働き出してからだと思う。
今となってはうっすらと記憶に残る子供の頃の思い出だ。
1円でも安い野菜があれば、母は自転車に乗り買い物に出かけていった。
決して貧乏ではなかった我が家のはずだったが、倹約家の母には贅沢という文字は彼女の辞書にはなかったのだろう。
その分、子ども達のために貯金をし大人になってから何かしらの祝い事に使ってくれた母。
私を含めた子供達は皆実家を離れそれぞれの家庭を築いた。
父が亡くなってから母はずっと一人暮らしである。
一緒に住まないかと何度も誘ったが、決して子供の世話にはならないと頑なに拒否した。
そんな母も、いつかしら自転車にも乗れなくなり、背が曲がりシルバーカーで買い物に行くようなった。そして足以外にも身体のあちこちが悪くなり、病院通いも多くなり、やがては1人では外へ出るのも危なくなってしまった。
もはや自分で風呂も入るのも難しくなり、手のこんだ食事を作る事なんてできやしない。
あんなに元気だった母の身体は二回りも小さくなり耳も遠くなってしまった。
老いるというのは本当にせつない事である。
今、私は月の大半は母と暮らしている。
炊事・掃除・洗濯、車椅子で病院へ連れて行ったり買い物に連れていくのが私の役目である。
掃除はヘルパーさんも来てくれ、風呂はデイサービスにお願いしている。
幸い下の世話はまだしなくても良さそうだ。 頭の方もしっかりしている。
だけど、何事も自分で思うようにできないもどかしさか、母は愚痴が多くなり自分を責めて涙する事も見かけるようになった。
気弱になって私にさえ気を遣っている母を見ると無性にせつない。
腰や足が良くならないだろうか。指先の痺れが良くならないだろうかと。
母は施設には入りたくないと言う。
それはわかる。 そうしてあげたい。
だけど、これからどんどん老いていく母をどこまで面倒を見れるのだろう。
今の日本にはこんな家庭がたくさんあるのだろう。
我が家はまだ良い方かもしれない。
私は家で仕事をしているから何とかなっているが、外に出て仕事をしながら介護をするというのは想像を絶する大変さだと思う。
以前に著名な方の講演を聞いた時、日本の高齢化・少子化に伴う将来の財政難についてこう語っていた。
「皆さん長生きしてほしい。それも元気で病院にもかからないように。」
不謹慎かもしれないがその通りだと思った。
税金を使う人が多くなり税金を納める人が少なくなる。 ならばなるべく税金を使わないでいてくれたらありがたい。至極当然の事だ。
私は19歳で実家を出たので、実家で暮らしたのは人生の半分以下である。
当時の事もどんどん記憶の片隅に追いやられていき、母の料理の味も忘れてしまっている自分がいる。
後から後悔するくせに、苛々して母に小言を言ってしまう自分がいる。
もう嫌だと思う自分がいる。
申し訳ないけど、介護をしている世の中の大半の人が同じような経験があるのだと思う。
「何故、私がここまでしなくちゃいけないんだ」と。
だけど、両親が老いて動けなくなってきたら世話をしなければならない。
理由はひとつ。親子だから。
そう自分に言い聞かせて日々を歩いて行こうと思っている。
元気で長生きして欲しいと切に願う。